―――「一つの体 多くの部分」―――

牧師 白 石 久 幸

 

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。……一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (Tコリント12章12〜26節)

 

 今日の箇所は「一つと多様」の関係です。どうしてこのような問題が出てきたかといえば、コリント教会の中に自分は霊的に素晴らしい賜物を頂いていることを誇っていた人たちがいたからです。異言というまわりにいる人には分からない言葉を発し、高慢になっていたのです。個人主義的な人たちです。そのため礼拝も教会も混乱をしていました。

 パウロは「一つと多様」を説明するに、人間の体を用いて面白く話をしています。14節から19節までは多くの部分からなっていることを言っています。多くの人がいるということは、一人一人に違う賜物が与えられていることです。しかも違いがあるということは豊かさでもあります。それは聖霊の働きが豊かであることを現します。教会は違う賜物を持った人たちを必要としています。

 ここから私が問いたいことは「あなたはどのような賜物を持ってどの部分を受け持つのですか」ということです。例えからいえば、足は縁の下の力持ちかもしれません。手は指図するような人かもしれません。耳は人の話を聞く人かもしれません。目は全体を配慮する人かもしれません。別の言い方をすれば、足は伝道する人、手は祈る人、耳は牧会する人、目は世の見張りをする人、と考えても面白いです。ただきれいに分けることなど出来ませんが。大事なのはどのような働きであっても、皆が尊いということです。ある一つの賜物を取り出して、特別なものであるように考え振る舞ってはならないということです。また逆に自分の働きの小ささを嘆くこともありません。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Uコリント12:9)からです。弱さを自覚する者はイエスに頼りつつ自分を差し出せばよいのです。

 これらの部分は部分だけで独立して働くのではなく、部分と部分が繋がって働くのです。そして共通の目標は「全体の益になるため」です。

 後半は20節から26節までです。今度は逆に多くの部分があっても体は一つだと言うのです。ここから皆さんに問いたいのは「あなたは皆が繋がっているために、逆に言えば一つを破壊しないために、何ができるのですか」ということです。

「お前は要らない」などという言葉は言ってはいけない言葉です。よく例えを読みますと、足がうらやましく思った手が、目から「お前は要らない」と言われているのです。いじめの構造みたいです。

 どのように繋がっているか、例えで言えば見苦しい部分、見栄えのしない部分、見劣りのする部分に対して思いやりを持つことです。具体的にはどういう人かは分かりませんが、置いていかれるような人がいないよう、巻き込んでいくということです。思いやることを別の言葉で言えば、とりなしの祈りをするということです。直接何か出来なくても、お祈りは人を神と人とに結び合わせます。お祈りされた人も励ましを感じるでしょう。また思いやるとは罪を赦し合うということです。罪の赦しはイエスがしてくださることです。私たちはその人がイエスによって罪赦された者として受け止めあっていくことです。教会であっても我が出たりわがままが出たりします。それらを自戒すると共に、イエスが私の罪を赦すにはどれほど忍耐が必要であったかを考え、お互い受け止めあいたいものです。そしてもう一つは共に苦しみ共に喜ぶ関係です。一つの体をなしているわけです。痛みや喜びは共有したいものです。自分との比較でなく素直に分かち合いたいものです。教会の約束にも書かれています。「主にある兄弟姉妹の愛を持って愛し合い、互いに喜びと悲しみを共に分け合います」。

 ひとつであることは礼拝において共に集うことで確認していきます。また主の晩餐においても裂くパンはキリストの一つの体であることを表しています。キリストの体が幾つにも分かたれることなく、一つの体として形作っていきましょう。 (2010年3月7日礼拝宣教要旨)

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