―――目標を目指して―――

                             牧師 白 石 久 幸

 

 なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。……わたしたちの本国は天にあります。(フィリピ3章12節〜4章1節)

 

 新しい年が始まりました。昨年のことは良くも悪くも神に預けていかないと、新しい一歩は踏み出せません。神からいただく新しい一年を、与えてくれる神に向かって進んでいきましょう。それは一年のことだけでなく、パウロの信仰や生き方、そして私たちにも通じるものです。

 パウロは「後ろのものを忘れ」と言います。それはパウロの業績であります。教会を設立し福音を広めた、それはほめたたえられてしかるべきものです。でもパウロが「忘れ」と言うのです。それは実績を根拠に前に進むのではなく、天から手を差し伸べてくるイエスにこそ信頼を置いて進む。それは私たちの賞は天に迎えられることだからです。

 天国の素晴らしさは私たちにはなかなか分かりません。パウロは「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言います。でも私たちは理解するのは難しいです。

 天国をふるさとと例えれば少しは分かります。ふるさとに対する憧れはふるさとを離れた人には良く分かります。ふるさとではありませんが私の小さかった時正月に祖父祖母の住んでいる秋田まで東京から汽車に乗って(50年以上前の話です)行くと、だんだん雪が深くなり、もうじきおじいちゃんに会えるということで頭が一杯になります。昨日のことなどすっかり忘れています。待っていてくれる人がいるのです。

 天国に憧れる別の理由は、「わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」からです。「卑しい〕とは「滅びる」と言うことです。イエスと同じ復活の体が与えられるのです。

 昨年も多くの有名人が亡くなりました。年末に一覧表が出ます。直接知らないこともありますが、「惜しい人を亡くした」で終ってしまいます。年末に今は引退されておられる牧師が召天されました。個人的に30年以上前から知っている先生です。8人の子どもを育てながら開拓伝道もされた先生で、曲がったことが嫌いな熱血漢でした。この先生のことは新聞には載りません。しかし神がその滅びる体を栄光ある姿に変えてくださることは確信を持って言えます。

 ちょっと変わった言い方かもしれませんが、そういう天国からイエス・キリストが今年もやってくるのです。一日一日がただ過去からの時間の流れで来るわけではなく、イエスが私たちに対する思いを持って差し出しているのです。だからこそ後ろのものに寄りかかるのではなく、新しく備えてくださるイエスに向かって身を伸ばして過ごしたい。

 新聞で知りましたが、今年で70才になる将棋棋士の加藤一二三さんは若いときからの実力者です。24才の時に「将棋は一手一手確実な手をさし続ければ勝てる」という考えにたどり着きます。私たちのするへぼ将棋ですと二手三手と戻ってやり直しということもありますが、プロは後ろのものをみていたら負けです。一手一手が真剣なのです。そして確かな人生観を持って生きていきたいと求道し、30才でカトリックのキリスト教の信者になりました。対局の朝は教会に行き、「力を十分発揮できるように」とお祈りし、気持ちを整理するそうです。「おかげで長く棋士をやっていますが、どんな大きな勝負に負けても、悔いることなく、希望を持ち続けられる」と言うのです。

 私たちも毎日お祈りをしています。それでもすべてうまくいくとは限りません。悲しみも来ます、失敗もするでしょう。でもまた希望を持ち続けられるのは、キリストの所から時間がやってくると考えるからです。私たちを最後は受け止めてくれる方が待っている。そのことを信じていけたらこの一年は素晴らしい年になるでしょう。

 神はイエスを十字架に付けるほどに私たちを愛していてくださいます。パウロの回心は自分の実績を放棄し、このことに信頼を寄せたのです。私たちはこの世に引かれたレールを歩むのではなく、キリストが私たちのためにとりなし、守り、愛していてくださる所から備えてくださる一日一日を過ごすのです。イエス・キリストを信じ、良い年であるように期待し、祈ります。   (2010年1月1日元旦礼拝宣教要旨)

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