―――詩編23編 我々は聖書を愛する―――

 

 日高嘉彦先生(日本バプテスト連盟タイ派遣宣教師)

 (タイ・バプテスト神学校教授)   

 

1主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い

3魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく

わたしを正しい道に導かれる。

4死の陰の谷を行くときも

わたしは災いを恐れない。

あなたがわたしと共にいてくださる。

あなたの鞭、あなたの杖

それがわたしを力づける。

5わたしを苦しめる者を前にしても

あなたはわたしの食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ

わたしの杯を溢れさせてくださる。

6命のある限り

恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り

生涯、そこにとどまるであろう。   詩編23編

この度は、長住教会にお招き頂き、共に礼拝を守れることを感謝致します。とりわけ、今週から世界祈祷週間がはじまります。共にこの神様の御業を覚えて祈ることも感謝です。

 今年は皆様のお祈りと献げ物に支えられ宣教師としてタイに使わされて14年が経ちます。この14年間、バンコクにあるバプテスト神学校で聖書を教え、牧師の養成、教育にあたってきました。それは神学生達と一緒に聖書を読み、共に御言葉から学び合い、分かち合うという経験の連続でした。その共に聖書を読む体験を通して、恐らく日本にいては思いもつかないような示唆や、学びを与えられました。今日は、異文化の中で御言葉に出会う体験の一端を「我々は聖書を愛する」という題でお分かちさせて頂きたいと思います。

文化や歴史は、我々が意識している以上に聖書の読み方に深く影響しているものです。例えば、タイは熱帯気候、高温多湿で、自然の恵みが豊かなところです。従って、聖書を読むときも食べ物が出てくる箇所は、非常におもしろい読み方があります。

ある時、友人の牧師と出エジプト記を読んでいたら、十の厄災がタイでおきていたら、タイの人たちは喜んだだろうと言います。なぜならタイの人はイナゴや蛙を食べ、畑に探しに行き、また養殖をしています。それが向こうの方からやってくるなら、採りに行く手間が省け、当分生活のために仕事をする必要もないからだそうです。

またタイの教会では、しばしば詩篇や箴言、あるいは伝道の書(コヘレトの書)から教訓を重んじた説教がされます。それはタイが仏教国であることが影響しています。仏教のお坊さんのお説教は、人々の日常生活に溶け込んでいて、テレビ番組があるほどです。その中で、僧は仏の教えを引用しながら生きる知恵を解きます。また、説教の結論に、その内容を詩に要約し吟じるというスタイルが時折見られますが、これもまた仏教の説法の影響かと思います。

初めの頃は、このような文化さらには仏教の影響を受けている教会のスタイルや、聖書の解釈を耳にし、奇異にも感じ、また福音からずれているようにも思えました。しかし長年タイのクリスチャンと接していて分かったことは、彼らに一本のしっかりした信仰の柱がある事でした。それは「聖書を愛している」と言うことです。

例えば、タイの教会では、聖書暗唱と言うことが非常に重んじられていて、教会学校はもとより、神学校の教室でも、聖書の暗唱が主眼になっています。これを目の当たりにしたのが、今年の6月にバンコクの大学で開かれた「聖書の世界を極める競技会」でした。これは、タイ聖書協会が主催する全国規模の青少年向け聖書大会で、もう10年ほど続いています。これはチャンピョンを決めると言うよりも、地域ごとに聖書を愛する青少年を育てるという目的があり、全国を4ブロックに分けて、それぞれの地区で小学生部門(小4−6年)と中学生部門が開かれます。今回、私は中部・バンコクブロックの小学生大会に審査委員として招かれました。この大会に参加した小学生は、プロテスタント教会、カトリック教会、ミッションスクールの代表98のチーム(1チーム3名)で、それに保護者や教会学校の先生達も詰めかけ、会場となった大学の大講堂は人で一杯でした。

今回のお題は「出エジプト記」で、そこから選択、解説、クロスワード、絵解きなど多岐にわたる問題が3時間にわたって出題されます。聖書の知識を多角的に問う、非常に難易度の高い問題でした。私は審査委員と言うことですが、恐らく半分も解けるかなという難易度でしたが、優勝チームは90点(カトリックのあるミッションスクールの女子チーム)、準優勝は89点(センサワン教会)という驚異的な点数でした。

優秀チームには、盾とトロフィー、奨学金、スポンサーからスポーツ用品がおくられ、また参加チームにも参加賞の他に様々な福引きがあり、会場は子供達と保護者・教会関係者の熱気に包まれていました。

子供の時から聖書に真剣に取り組み、またそれを楽しみとしている子供達の顔を見ると、タイの教会が、み言葉を愛し、そこに拠って建つ教会として強められているのを見たようで、嬉しい限りでした。

このように、強力な仏教の影響の中にあっても、御言葉を愛し、また御言葉に真剣に取り組んでいる姿は、私自身も神学校の教師として力づけられました。私もまた神学校の教師として神学生に教えたいと願っていることは、聖書に何が記されているか、そのことを一つ一つ吟味し、聖書に向き会い、その中からメッセージを読み取ってゆくという姿勢です。このような私の問いかけは、時に学生が考えてきた聖書の読み方を根本的に問い直すことも含んでおり、反発を受けることもあります。しかし、彼らと共に学びを分かち合う中で、もう一度聖書に向かい合う学生も少なからず出てきます。そして私達の思いを超えて豊かで深い聖書のメッセージに目が開かれて、私の授業を楽しみにしてくれるようになります。このような学生達に励まされ、今日まで教師を続けてきました。

最後に、詩篇23篇の中から神に対する呼びかけの言葉(人称代名詞)を中心に、タイにおいて学んだことを、お分かちして話しを終わりたいと思います。タイ語の聖書を読んでまず感じるのは、その国の歴史や文化を担っている言語は、翻訳にも強く影響を与えていると言うことで、これは日本語の聖書にも見て取ることが出来ます。

例えば、新共同訳聖書の場合、「主」という言葉が1−3節を中心に、3回出てきます。そして6節の最終行にも「主の家」と言う表現がでてきます。しかし、この旧約聖書の原語であるヘブライ語のテキストを見ますと、4回でてくる「主」は、実は2つの異なる単語を同じく「主」と訳していることが分かります。つまり、最初と最後の「主」は、神名「ヤハウェ」の訳語であり、2-3節の「主」は、「彼」と訳すべき単語の訳語です。

つまり詩篇23篇では、最初と最後の行に神名「ヤハウェ」が、全体を枠付け、それ以外は、2−3節では神を「彼」、4節以下では「あなた」と呼ぶのです。それでは、なぜ新共同訳(口語訳、新改訳も同様)は、神への呼びかけである「彼」を避けて、「主」と訳しているのでしょうか。これは日本語の感覚として、神を「彼」と訳すことにどこかためらいがあるのかもしれません。

私はこの「彼」という表現をめぐる以下のような経験があります。ある師匠に何人かのお弟子さんがいましたが、その師匠と1人の弟子との関係に微妙な隙間が生じ、それまで師匠を「先生」と呼んでいたのに、ある時から「彼」と呼び始めます。そして、それを聞いた他の弟子が、失礼だと言ってその仲間の弟子に憤慨したのです。つまり、「先生」というのは敬意と親しみを込めた表現であるのに対し、「彼」は第三者的な、突き放したよそよそしいニュアンスが出ており、敬意が感じられないというわけです。

このように、日本語で神を「彼」と呼ぶことは、神に対する敬意を損なうという感覚が働き、あえて「主」と訳しているのかもしれません。

これは日本語の聖書の例ですが、タイ語の聖書においては、この傾向はさらに神を「あなた」と呼ぶ4節以降にも及んでいます。つまり、タイの語では「彼」(2−3節)も、「あなた」(4節以下)も、「主」と訳されています。タイ語では、神を「彼」という習慣はなく、また「あなた」と呼ぶ習慣もないのです。

タイ語の場合特に、神仏(さらには王)を敬うという文化が高度に発達しており、タイ語の表現や語彙にも厳格に適用されます。従って、神を「彼」、「あなた」と呼びかけることは、敬意を失った口幅ったい表現になるのです。

これは1つの例ですが、どの言語であれ文化や歴史と深く関わっていて、それを前提としているということがわかります。そして、これは異文化の中で聖書を読むことによって、今まで無意識のうちに前提としているものが見えてきますし、またそれによって、聖書が伝えようとしている、私達の文化やものの考え方とは違うメッセージが浮き彫りになってきます。ここで取り上げたのは、神に対する呼び方の比較ですが、私はタイ語の聖書を読んだことで、何気なく読み飛ばしてきた神に対する呼びかけ一つにも聖書の深いメッセージがあると目が開かれました。これは私にとって大きな喜びの体験でした。

そこで神学校で学ぶ学生達、また卒業していった牧師達に、このような体験をできるような道具を提供できないかと考えた末、ヘブライ語とタイ語の「インターリニア」を書こうと決心しました。これはタイでは最初に出版されるインターリニアで、来年春には出版予定(詩篇1-25篇)です。このインターリニアには、ヘブライ語のテキストを一行目におき、二行目にその単語の発音をタイ語で音写し、三行目にその単語のタイ語訳を記します。そうすることでまず、原語の音に触れ、ヘブル語とタイ語の訳を比較し、より深く聖書を吟味して読むことが出来ます。また聖書の背景をくみ取ってもらえるように、タイ語訳はヘブライ語の文化的意味を強調した訳語をつけました。

また、付録の部分では全ての単語の文法的な説明と、先に出版した「ヘブライ語タイ語辞書」のページ数を書き、さらに深く調べたい人の資料としました。このインターリニアを使うと詩篇23篇の神への呼び名が、3人称「彼」と2人称「あなた」に使い分けられているのが分かります。

ここから次のようなメッセージが浮かび上がってきます。つまり、2−3節の平和で静かなモチーフ(「青草の原」、「憩いの水」2節)が、4節以下で死と苦しみのモチーフ(「死の影」「災い」4節、「私を苦しめる者」5節)に変わるのに応じて、神への呼びかけが3人称(「彼」)から、2人称(「あなた」)へ変わっています。

つまり、敵から追われて逃げどころのなく追い詰められた事態にある場面で、詩人は神を「あなた」と呼んでいます。ここで詩人は災いや苦しみの時にこそ、神はなお近くいてくださる神(「あなた」)なのだと告白しています。

私はインターリニアの巻頭言に、詩篇23編を取り上げ、苦しみの時にある時こそ、なお近くいてくださる神という詩人の信仰が現れていると説明を加えました。

この説明は、私が仕えてきたタイの教会の方へのメッセージです。現在タイの社会は政治的混乱が続き、経済的にも落ち込んでいます。その影響を受け、苦しみを味わっているのは教会も同様です。苦しみの時にある時こそ、なお近くいてくださる神を、彼らと共に見上げたかったからです。さらに、山あり谷ありの私達の人生、明日何が起こるか分からない私達の歩みであるとしても、その初めから終わりまで「主(ヤハウェ)」(1、6節)の見守りの中にある枠づけられている幸いを詩人は証しています。

今朝皆様にも、皆様が苦しみの中にある時にこそ神はなお近くにいてくださる。そこに私達の幸いがある。ということをお伝えしたく、この詩篇を皆様と共に読ませて戴きました。     (2009年11月30日世界祈祷週間礼拝宣教要旨)

inserted by FC2 system