―――仲間に加えられる―――

 牧師 白 石 久 幸

 

 ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 (使徒言行録2章37〜47節)

 

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)。これは主イエスが言われたビジョンです。これが実現されていく様子をルカが書いています。しかし時には誇張した表現で書くこともあります。三千人バプテスマを受けたこともそうです。教会生活も理想化して書いたりしています。それなら割り引いて聖書を読みましょうということも言えます。しかしルカは思いを熱くして書いているわけですから、私たちもそれに添って読んだら心が熱くなって来るのではないでしょうか。今の教会に三千人増えたらあれも出来る、これも出来ると色々とアイデアが浮かんできます。そのように聖書を読めたら楽しくなってきます。

 また楽しい表現だと思いますのは、今で言う教会員のことを「仲間」と呼んでいることです。よく小さい子供から高齢の方までいることから「神の家族」と呼んだりもします。総会など家族会議というところです。しかし「仲間」という表現もいいなあと思います。仲間ですから困っていたら助け合い、落ちこんでいたら励ましあい、少々失敗しても笑って済むところがあります。もちろん「仲間割れ」とか仲がよすぎて他の人が入れなかったりしたらいけません。今日の箇所は「民衆全体から好意を寄せられ」(2:47)ていた、ことが分かっていますから、きっとよき仲間、まだ仲間に入っていない人からも信用されていたに違いない人たちであったのです。

 しかしこの三千人という数字は、教会は多種多様な人たちの集まりであることもあらわしています。使徒言行録2章に聖霊が降った後、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(2:6)とあります。そこにはあらゆる地域から来た人たちがいました。三千人はそういう人たちを含んでいます。教会は決して人間的に好きな「仲間」だけではなく、主によって集められた人たちによって成り立っています。主が加えてくださったからこそ、仲間として迎えるのです。また仲間に加えられるのです。それが教会です。ですから教会を離れたクリスチャンというのはいないのです。

 主はだれでもが仲間になることを約束してくださっています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも…与えられているものなのです」(2:39)。でもこの人たちはどこで仲間になる決心が与えられているのでしょうか。それはみ言葉との出会いによります。ペトロは説教をいたしました。その内容は主イエスの十字架と復活を通して神は私たちを赦し、救い、愛していることです。そのみ言葉に触れると、人々は「どうしたらよいのか」と反応が起きます。赦しとか救いとか、ひと言で信仰といってもよいかもしれませんが、それは自分の外からやってくるものなのです。自分の中から生み出されたものではありません。人間が作り出せるものでもありません。神が与えてくださるものです。だから奥義ともいうのです。それならそれらは聞かせてもらわなければ、私たちにはわかりません。聖書を通して教えてもらうのです。聖書のみ言葉は私たちの心を動かします。もうすでに神の働きが私たちの上に起こされているからです。その応答として私たちはバプテスマを受けるのです。それは私たちが完璧になることではありません。やはり罪を犯し続ける者です。でも主イエスはそういう私たちを受け止め続け、赦し続け、愛し続けてくださるから、私たちは主イエスに自分を預けることが出来、喜びと勇気を持って一歩を踏み出していけるのです。

 教会はみ言葉を語り続けます。また当時教会が熱心にしていたこと、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」も含めて教会が教会に与えられた務めに熱心である時、主はまた仲間を加えてくださるでありましょう。ルカの誇張した表現に私たちも夢をもって、主イエスのビジョンに連なる教会でありたい。     2009年10月11日礼拝宣教要旨

 

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