―――本当の預言者―――

 牧師 白 石 久 幸

 

 預言者エレミヤは言った。「…あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」 エレミヤ書28章1~17節

 

 エレミヤは預言者として神の言葉をそのまま伝えると同時に、時には象徴行為をもって伝えることもありました。今エレミヤは耕作をする時に二頭の牛の首をつなげる軛(くびき)を自分の首につけて長期間町を歩いていました。この時すでに南王国ユダの首都エルサレムは大国バビロニアに攻められ、一部の人がバビロニアの首都バビロンに捕虜として連れて行かれていました。神はエルサレムの不従順・不信仰の罪ゆえにさばきとしてバビロニアに仕えることを決めており、早く降伏するようにエレミヤにこの姿をさせて人々に訴えさせたのです。

 この28章は紀元前594年頃の話です。紀元前587年ないし586年にエルサレムの神殿も王宮も城壁も町そのものが破壊尽くされてしまいます。神は早く戦いを終らせたかったのです。多くの死者を出すことは望んではいませんでした。しかし南王国の王はエレミヤを通しての神の言葉を受け取ろうとしませんでした。何のためだがわかりませんが最後の抵抗をしています。そしてそれを応援する人もいました。

 28章には別の預言者が出てきます。ハナンヤと言いますが、エレミヤとは全く正反対の預言をします。それはエレミヤの首にはめられていた軛(くびき)をはずして打ち砕き、2年後にはバビロニアが負けて勝利すると言うのです。奪われていた祭具も返ってくると言うのです。神はそのようなことを言っていません。ハナンヤは偽りの預言をしているのです。神の言葉を受け取らせないように邪魔をしているのです。

もし私たちが王ならば甘い言葉のほうを受け取りたくなるかもしれません。しかし厳しいことの方が神の言葉であることが多いでしょう。それまでの預言者はやはり厳しいことを言っていました。安易に「平和」という預言は実現しなかったのです。私たちも迷った時は厳しいことの方を受け取った方がよいかもしれません。

 わたしの好きな聖句のひとつにコヘレトの言葉があります。「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」(口語訳 7:14)。「考えよ」ということの中に「お祈りをし、聖書を読み、神に尋ねよ」ということが含まれているのではないでしょうか。王はそれをしたようには思いません。私たちは逆境の時こそ問うていかなければいけないのです。

しかし将来のことは私たちには分かりません。南王国の王ももちろん将来のことは分かりません。その時参考になるのは過去を振り返るということです。もうすでに北イスラエルは滅ぼされ、預言者も警告を発したことがあることは知っていたはずです。それは参考になったはずです。歴史は繰り返すと言いますが、私たちが昔書かれた聖書を読む、特に旧約聖書は古いです。しかしその中にこれから先のことについて神の言葉がいっぱい詰まっているのです。昔の話を読むのではなく、将来のことのために聖書を読むということでもあるのです。

神は厳しいさばきをすることもありました。しかしそれが神のすべてではありません。エレミヤは救済の預言もいたします。神はさばきを通して救いをもたらそうとしているのです。バビロンに仕えるというのも同じです。ですから2911節にこういいます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。神の思いがよく分かります。

さて私たちにも「将来と希望を与える」計画があるはずです。神は私たちを愛して止まないわけですから、私たちの将来も考えていて下さいます。しかし私たちは罪人であります。私たちにもさばきということがあるのでしょう。しかし私自身それを受けた覚えがありません。そうですさばきはイエス・キリストが私に代わって十字架で受けてくださったのです。十字架があるからこそ赦しが与えられ、将来が与えられているのです。

エレミヤは早く降参するように言いました。私たちも早く十字架に自分を明け渡していきたいものです。(2009年8月23日宣教要旨)

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