―――聖なる神との出会い―――

 牧師 白 石 久 幸

 

 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 (イザヤ6章1〜8節)

 

 イザヤは紀元前740年ごろから約40年にわたって活動した預言者です。預言者が登場する時の社会の状況は、神が求める正義と平和が成り立っていない時であります。預言者が遣わされて来るのは神の願う社会になってほしいからで、自然、民に厳しい言葉を語らざるを得ないことになります。当時の世界は大国アッシリアやエジプトが覇権を争っていて、南王国ユダ、北王国イスラエルがそれに巻き込まれていました。途中北王国イスラエルは滅ばされます。そういう中でイザヤが語ったのは「神に信頼を置きなさい」ということでした。王や人びとは力の強い国へとなびいていきます。戦争を仕掛けられて動揺していてもイザヤは「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(7:4)と語ります。しかし人びとはイザヤが語れば語るほどに心は離れていってしまいます。イザヤの苦労を想像できます。

 イザヤは40年という長い間預言者としてよくとどまり続けることができたと思います。40年は長いです。それはイザヤの召命がはっきりしていたからです。

 イザヤは神殿にいます。そこで現実と見分けがつかないような体験をします。神が玉座におられ、衣のすそは神殿いっぱいに広がります。神に仕えるようにセラフィムが飛び交っています。セラフィムは天的な存在と言われます。このセラフィムが神を賛美しています。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は 地をすべて覆う」(3)。「聖なる」が3回続けられるのは最高を現します。罪からかけ離れた方だというのです。その方の素晴らしさが地を覆うのです。みんな神のすばらしさに触れることができるということです。しかしそれは自分の罪を自覚することにもなります。聖なる方の前では私たちは罪人です。

 イザヤは神殿で礼拝をしているわけです。礼拝は神が聖なる方だということから始まります。人間が何かをしたということからではありません。人間が礼拝をするから礼拝が始まるのではなく、神が神としておられるから始まるのです。それならイザヤと同様私たちも「災いだ。わたしは滅ばされる。わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者」(5)といわざるを得ません。

 しかしそれだけだったら礼拝に来てよかったということにはなりません。セラフィムは祭壇から火箸で取った炭火で、口に触れこう言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7)。私たちも罪赦されるのです。「罪赦された」というのは「罪はおおいかくされた」ということです。何によって隠されたのか。それはキリストによってです。十字架につけられたキリストを着ることで罪覆い隠されるのです。それがバプテスマです。

 その時にイザヤは聞こえてきます。「誰をつかわすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。天の声の迫りを感じイザヤはすぐに応えます。「わたしを遣わしください」。それは預言者としての仕事を軽く考えていたわけではないでしょうが、また40年もするとも考えなかったかもしれない。年数の問題よりも、神の迫りを感じたからで、神のために働きたいと素直に思ったでしょう。なにもイザヤに自信があったからではありません。そしてこの召命がはっきりしていたからこそやり続けることができたのです。預言者の原点です。そしていつも戻っていった所です。

 私たちもそれぞれ召命をいただいているのです。それはクリスチャンになることがそうだからです。恵みに出会い、罪赦された体験を持っています。そこに「誰を遣わすべきか」との声も聞こえてくるのです。なにも預言者になることはありません。しかしひとりの証し人として世に遣わされて行きます。それがはっきりしていると、困難な時も乗り越えていける力が与えられるのです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)。罪赦された恵みを思い、神の恵みに応えていく者でありたい。

(2009年7月12日礼拝宣教要旨)

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