―――道・真理・命―――

 牧師 白 石 久 幸

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。……」。イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。 (ヨハネ福音書14章1〜6節)

 

 イエスは父の所に帰る時が来たことを知ってお別れ説教を始めます。帰る父の所に、今弟子たちはついてくることができません。この世に残る弟子たちに、イエスと一緒でない不安が襲ってきて、動揺することが予想されます。ですからお別れ説教の最初の言葉は「心を騒がせるな」というものでした。これは「嵐で海上の水が激しく波立つ様子」をあらわした言葉です。実際イエスと弟子たちが乗った船が嵐にあった時、「おぼそうです」(ルカ824)と弟子たちが騒ぎ立てたことがありました。不安の波、恐怖の波が襲ってくると心騒ぎます。

 しかしイエスは「心騒がせるな」と言います。イエスが騒がせる経験がなくて言っているのではありません。イエスは3度「心騒がせる」時がありました。ラザロの死を悲しむ人々を見て、自分の死が近づいてきたことを知って、ユダの裏切りを予告された時です。だから弟子たちがイエスの死を知り、自分たちも捕まるかもしれない事を考え、仲間が裏切ったことを考えると、心騒がずにはいられないことが分かるのです。

 しかしイエスは自分の死が永遠に別れを告げることではないことを知っています。むしろ死を通してより結びつきが強まるのです。なぜならイエスは私たちの「住む所」を用意してくださるからです。「住む所」とは「とどまる」「つながる」という動詞から出てきた名詞です。ぶどうの木のたとえにありますように、イエスと結びついた私たちがいるのです。それは私たちが善行を積んで用意するものではなく、イエスによってすでに用意されているのです。そこに住むことで私たちの心騒ぐ原因となるものから解放されるのです。この世では原因そのものは残るかもしれません。しかしそこから出てきます不安、悲しみといったものはイエスに流れて行き、イエスからは平安、喜びなどが流れ込み、私たちの心を支配されるのです。だから「心騒がせる」必要はないのです。

 また「心騒がせ」なくてよい理由は、イエスは今去って行きますが、また戻ってくると約束されるからです。死もまた「心騒がせる」ものですが、戻ってくるということは死に支配されていないことです。それは終末ということではなく、イエスの代わりに聖霊がやってくるのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(1418)という約束どおりです。私たちはイエスと離れたりはしないのです。

 私たちは心騒ぐようなことがある時、イエスを忘れたりします。丁度弟子たちが嵐にあった時イエスに頼ることをせず、慌てふためいたのに似ています。大事なのはそういう時こそもう一度イエスを信じ、神を信じることです。目を「心騒がせる」事柄だけに向けるのではなく、イエスに向けるのです。

 第二次世界大戦のときドイツでナチス政権に抵抗したマルティン・ニーメラーという牧師がいました。ナチス政権下で人々はどれほど「心騒がせる」出来事にあったか計り知れません。ニーメラー牧師は逮捕され、獄中から送った手紙の一節にこういうものがあります。「われわれはどの程度自分を信頼するかという点を問題にする必要はない。かえって、われわれは、神の言葉が存在し、そのみ言葉の告げるところは必ず実現するということを信じているかどうかを問われるのである」(カール・バルト「神認識と神奉仕」131頁)。

 さてイエスは聖霊を送るためにも今天に帰られるのです。トマスの質問にイエスははっきりと語られます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。イエスは神でありつつもこの世に来てくださり、十字架にかかり、死の世界にまで行かれ、しかし復活し天に帰られます。その道を作られたわけです。私たちもイエスの歩まれた道を、イエスに導かれつつ歩みます。イエスも途中心騒がせることがあってもその道を歩み続けました。私たちもいろんなことに出会うかもしれませんが、「住む所」が用意されているのですからいつでもイエスを信じて歩いていきましょう。  2009年6月14日礼拝宣教要旨

inserted by FC2 system