―――葦の海の奇跡―――

 牧師 白石 久幸

 

イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」…主はモーセに言われた。「…杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。 (出エジプト記14章)

 

 連合の少年少女会は毎年面白い年間テーマを考えます。今年は「讃美一体」です。何年か前は「出発信仰」でした。それはイスラエルの民がエジプトを出発する時の呼びかけに丁度当てはまる言葉です。

 神はイスラエルをカナンまでの近道であるペリシテ街道ではなく、回り道をさせます。イスラエルが追いかけてくるエジプト軍から助かる確率は回り道の方が高かったからです。イスラエルはきっと後になれば、回り道をさせてくれたことを神に感謝したことでありましょう。私たちも回り道と思えることがあっても、結果としてよかったといえることを体験したことがあるでしょう。渦中にいる時はそのことが分かりませんからつぶやきも出てきたりもします。今日の箇所のイスラエルもまた同じです。

 イスラエルは「意気揚々と出て行った」(8)とあります。長い間の奴隷から解放されて自由を手にしたのです。そのときの気分をよく表わしています。ですからエジプト軍が追いついた時は、喜びが大きかっただけ絶望も大きかったのです。前は海です。背後にはエジプト軍の戦車。民はモーセに叫びます。「一体何をするためにエジプトから導き出したのですか」(11)。民は目的がはっきりしていないのです。過去から決別しても、未来がはっきりしていないと、過去の決別もあやふやになるのです。

「何をするために」。それはクリスチャンにもいえるのです。過去のむなしい生活から救われてよかった、と思ってもこれから先クリスチャンとして何をするのか分からなかったら、いろいろ理由をつけてクリスチャン生活をやめてしまうかもしれません。

 モーセはエジプト王に言いました。「わたしたちの神、主に犠牲をささげさせて下さい」(53)。「犠牲をささげる」とは礼拝をするということです。それも「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」(109)とも言っています。「主の祭り]も礼拝のことです。出エジプトは全員が礼拝を行うために出て行くのだというのです。これはクリスチャンにも当てはまります。私たちは礼拝をするために招かれているのです。私たちを罪から救い出してくれた神をほめたたえるためです。

 目的が分かったとしてもイスラエルは今絶体絶命の中にいます。モーセは言います。「恐れてはならない」(13節)。これはどんな状況の中あっても神はおられるということです。でも私たちはそのことを忘れがちになります。また「落ち着いて」(13)とも「静かにしていなさい」(14)とも言います。それはこれから起こしてくれる神のみ業を見なさいということです。イスラエルのつぶやきは神がこれから行おうとすることにプラスになるのなら、大いにつぶやけばよいのですが、そんなことはありません。ならば身構えてしっかりと神のみ業を見るように、ということです。神はイスラエルを救い出そうとしている時に、イスラエルもまた神にしっかり結びついていないといけないのです。

 私たちも状況が思わしくない時、ただつぶやいているだけでなく、そういう時こそ普段にもまして神との結びつきをしっかり保っていたいものです。

 さてここでの神の具体的な救済方法は海を二つに分けるというものです。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返され、海は乾いた地に変わり、イスラエルは海の中の乾いた所を進んでいきました。どうしてそのようなことができるのか?仮説はありますが、私はこのまま信じている方が、夢があると思います。そして追ってきたエジプト軍が海の中に入ると、再びモーセが手を差し伸べ、今度は水がもとに戻りエジプト軍は水の中に投げ込まれました。

 ここからいよいよエジプトからはなれて約束の地に向かって「出発信仰(進行)」です。でも結果としてその旅路は40年もかかってしまいました。旅の途中イスラエルは不平不満を言います。神も怒りを現します。紆余曲折です。イスラエルの歩みがまっすぐにいかないのです。しかしまっすぐ行かなくても出発はしなければ旅そのものが始まりません。

 パウロはこの出エジプトの海が道となる奇跡をコリント書のなかでバプテスマと呼んでいます。そして目指す約束の地は私たちにとっては天国といってもよいかもしれません。そこにたどり着くまで私たちもまっすぐにいかないかもしれません。でも神は「火の柱、雲の柱」で絶えず守り導いてくださいます。紆余曲折かもしれませんが出発はしたいと思います。「何のために」と言わないように、神をほめたたえながら、礼拝する民として「出発信仰」です。

(2009年2月1日宣教要旨)

 

 

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