―――選  び―――

 牧師 白 石 久 幸

 

 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。            (ルカ福音書6章12〜16節)

 

 ルカ福音書はイエスを祈りの人として描いています。バプテスマを受けられた時も、逮捕される直前のゲッセマネの園でも、十字架の上でも祈っておられます。伝道の開始から最後まで、いや生まれた時から死ぬまでの一生を祈りの人として送られたことがわかります。祈りは神との対話です。「神が共におられる」ことが実感されるのも祈りにおいてです。

 さてこの箇所は徹夜で祈られています。徹夜はこことゲッセマネの園の2回です。ゲッセマネの園での祈りは、十字架に架かることを神の御心として受け取るために必死になって祈っているのです。状況からして簡単に「わかりました」とは言えないのです。長住教会も主の日のプログラムに関し神の御心を求めて決断しなければいけません。迷いや決められない苦しさなどあるかもしれませんが、イエスがそこから逃げなかったように、私たちも苦しさの中でも祈って御心を求めていきたいものです。教会はそのことを通して成長するでありましょう。

 さてイエスは人を選ぶことがいかに大変か知っておられます。弟子たちはたくさんいました。その中から神が選ばれる人をイエスは受け取ろうとしたのですが、ひょっとしたら神に念を押していたら夜が明けてしまったのかもしれません。なぜなら選ばれた12人はどう見てもばらばらの印象を受けるからです。漁師がいて、徴税人がいて、疑い深い人がいて、熱心党と呼ばれる武力で解放を叫ぶ民族主義者がいて、結果的に裏切る人がいて、どう考えてもまとまりません。神は何を基準に選ばれたのかよくわかりません。しかし神はイエスにこの12人をベストメンバーとして示したのです。

 教会の人たちも神により選ばれた人たちです。教会の人もばらばらといえばそうかもしれません。しかし私たちが立てられていくことの背後に神の祈りがあるのです。自分で信仰の決心をしたように思うかもしれませんが、背後に神の選び、神の祈りがあるのです。お互いにそのような人として受け止めたいものです。ですから長住教会もベストメンバーなのです。

 さて12人の中で一番良く知られているのはペトロでしょう。イエスから「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、全てを捨てて従いました。聖書を通して知るペトロは行動的で直情型の人間です。私たちはペトロがどんな失敗をしたかよく知っています。水の上を歩いてみるがすぐに失敗をしてしまう。十字架の予告をしたイエスをいさめ始め逆にしかられる。イエスを知らないと否認する。そういう失敗を見ていますとどうしてペトロが選ばれたのか分かりません。しかしそういう時、私たちはペトロのマイナス面ばかり探していることに気付きます。ペトロといえどもマイナス面ばかりではありません。

 ペトロは漁師でした。海ではなくガリラヤ湖ではありますが、それでも漁をすることは精神的な強さがないとできません。また父がいて、船があって、網があって、結婚していました。一家を支えるだけの責任感もあったでしょう。使徒にならなくても漁師として成功を収めた人です。でもイエスはそのペトロの強さや責任感を自分自身のために用いるだけでなく神のために使うことで、もっともっとペトロの中に喜びや感謝が生まれてくるのを知っておられたのです。神より与えられたものを神のために用いるようにチャレンジをしているといえます。

 私たちは自分の選びの時に好んで用いる聖句に「世の無学な者、世の無力な者、世の無に等しい者」を挙げます。だから神の前に誇ることなどできません。しかし気をつけたいのは、それだから「神のために働くことなど力不足で出来ません」と言い訳につなげないということです。神はあなたが輝き感謝が生まれる素晴らしい人生を送ることができるように、招いているのです。ある有名な神学者の言葉、「信ずる者だけが従順であり、従順な者だけが信じる」。

 皆さんにも神から力が与えられています。それは行動を起こすことかもしれない、祈ることかもしれない、考えることかもしれない。しかし神に選ばれ立たせられた私たちです。そのチャレンジに応えて行く者でありたい。そして背後にイエスの祈りがあることも覚えていましょう。(2008年10月5日 宣教要旨)

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