―――信じる者の父―――

                                                   牧師 白石 久幸

 

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、かぞえてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の議と認められた。 (創世記15章1〜6節)

 

 アブラムが75歳で主に召しだされてからもう10年近くなります。子どもができるという約束はまだ実現していません。新約聖書はアブラムを信仰の父とみています。しかし15章の前後の話を見ていきますと従順でないアブラムが載っています。それなのにどうして信仰の父と呼べるのでしょうか。

 アブラムは約束の地カナンにやってきますが、そこを通ってネゲブ地方にまで行きます。そこで飢饉に出会いエジプトにまで行きます。食料を求めて移動することは当然と言えますが、これは神に聴いて行ったことなのでしょうか。また妻サライを妹と偽ります。その動機は自分が殺されるかもしれないと、自分の死におびえたからです。そして逆に財産を手にしてネゲブ地方に再び帰ってきます。これらの一連の行動は、神を信頼した行動と言えません。

 でも不思議なのは、神はアブラムの罪に対して何のお咎めもしていないことです。罪をいい加減に考えているわけではなく、きっと神はアブラムに赦しを与えて、使命を思い起こさせることの方が大切だと考えたのでしょう。アブラムに与えた約束は、神もまた誠実に守ろうとしているのです。創世記は11章まで人間の罪のことばかりが記されています。しかしここからアブラムを通して人間に罪の赦しと祝福を示そうとされているのです。

 しかしアブラムを取り囲む状況は一向に変わりません。ですから神はまた幻の中で約束を繰り返すのです。アブラムの幸せは神の語りかけを何度も聞くことができるということです。私たちも聖書から神の声を何度でも聞くことが出来るのは幸せというものです。神の語りかけに対してアブラムは現実が変わらないことにイラついているかのように神に反論します。神はアブラムを連れ出して天を仰がせます。あなたの子孫はこのようになると言うのです。星を見せることで何が分かるのでしょうか。数えきれないほど子孫が増えるということであり、命を生み出すのは神であることを示しているのです。

 アブラムが信じる者の父というとき、アブラムが立派で私たちもそうならなければならないというのではなく、揺れ動くアブラムを赦しと約束を繰り返すことで信ずる者に変えさせていったと同様に、私たちも変えさせられていく、ということでアブラムに連なるのです。それはこうともいえます。毎日の生活は大変です。思わぬことが起きてきます。アブラムが経験した飢えも、死に対する恐怖も現代の問題でもあります。そんな現実をほって置かれるなら神はいない、少なくとも神を信じるのは無意味ととればいいのでしょうか。

 神がアブラムに言いたいことは、「あなたは未来を受け取っているか」ということです。現実の厳しさによってみ言葉は信じるに値しないと判断してしまうのではなく、み言葉を信じる所から、現実の厳しさはあっても少しずつでも変えていこうとする、未来を受け取っていくのです。そうでないとお祈りも意味を成さないことになります。神は私たちをそのような者に変えてくれているのです。

 アブラムは信じる者とさせられました。しかしまだ約束は実現するまで時間が必要です。それまでアブラムは待ち続け、祈り続け、信じ続けていかないといけません。「信じた」と言うのはある瞬間の出来事だけではなく、そうあり続ける未来を受け取ることであります。そうあり続けることが「義と認められた」と言うことです。それでイサクという約束の子どもを見ることが出来たのです。

 神は私たちに星を今でも見せているかもしれません。しかしそれを神の啓示ととればイエス・キリストを見させてくれています。死よりよみがえった永遠の命です。私たちはそれをまだ手にしたわけではありません。この世において動揺する出来事に会うかもしれませんが、イエス・キリストにあって未来を受け取り、その約束を信じて歩む、それがアブラハムの子です。(2008年7月13日宣教要旨)

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