―――祈りの家―――

                                                            牧師 白 石 久 幸

 

 イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された。…そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」。(マルコ福音書11章12〜25節)

 

 両替人とは、神殿でしか流通していないお金で神殿税を払うために両替の仕事をしていた人たちです。鳩を売る者とは、人々が自分の町から犠牲の動物を持参しなくても良いように、境内で犠牲の動物を売っていた人のことです。鳩はおもに貧しい人がささげる動物でした。イエスはこの人たちを追い出すことで神殿税や動物の犠牲をしなくてよいということを言っているわけではありません。異邦人の庭と呼ばれるとても広いところで行っていますから、次の日になればまた同じように商売をしているかもしれません。そして祭司長や律法学者たちもそのことでイエスに腹を立てているわけではありません。イエスの教えた内容です。それを聞いて殺そうと思うほどに腹を立てたのです。

 イエスは神殿で人々が真摯に礼拝をささげていると期待していました。しかしすでにその期待が裏切られたことを知っていたイエスはいちじくの木を呪うことで弟子たちに教えていました。遠くから見ると葉が茂り、実がなっていそうなのに、近寄ってみると葉のほかに何もないのです。見掛け倒しです。神殿もまたそのようだとイエスは言います。

 イエスが引用した「強盗の巣」はエレミヤ書7章からの引用ですが、そこにはユダの人々が不正・不義・不信仰をしていても神殿に来ることで、自分たちの行いが隠され、赦されるかのように思っていたことに対する批判が載っています。神殿が自分のすることを正当化させると思っていたのです。このイエスの話を聞いていた祭司長や律法学者たちはすぐにそれが自分たちに語られたことであることが分かったでしょう。彼らはイエスから偽善の指摘を受けていたからです。イエスは、自分たちの偽善を神殿にいることで覆い隠せると思うならば、強盗の巣にしてしまっていると言うのです。いくら両替が出来、犠牲の動物が手に入る便利さがあっても、本来の礼拝から程遠くなってしまっていることをイエスは行動で教えで指摘しているのです。

 それならいちじくが根元から枯れてしまったように、イスラエルも神から見放されてしまったのでしょうか。私にはそう思いません。枯らすことが出来る方は命を生み出すことも出来るでしょう。そのことをイエスは言うのです。

 イエスは言われます。「神を信じなさい」。ストレートに言われると響くものがあります。神を信じるということは、神の可能性を信じることです。「信じなさい」と言われると、私が何かをすることのように思ってしまいます。でもこの言葉は少し面白くてこのように訳せたりもします。「神にある信仰を持ちなさい」。信仰があるのは神であって、その神を信じるのです。その時に大事なことは疑わないということです。

 ここにあるたとえは私たちを驚かせます。信じるならば山も動くというのです。私たちは神が全知全能の方であると信じています。でもそれは何もかも私たちの願うことを可能にしてくれるということではありません。白を黒に変えるようなことを言うのではありません。私の考える全知全能とは、救いを起こしてくれることに関してのことです。私たちの救いのために御子イエスをこの世に送り、十字架にもかけられた。救いの約束は破られることはありません。それは仮に山が動いたとしてもそれ以上の価値あることであります。その意味で疑わないことが大切なのです。

 イエスは神殿を「わたしの家」と呼ばれた。長住教会もイエスの家であります。イエスの招待を受けています。招待してくださっているイエスの前で、私たちは自分を覆い隠すのではなく、ありのままの自分を差し出すと同時に、神を信じ、疑わず、祈り、真心からの礼拝をささげていきたいと思います。見せ掛けの葉だけでなく、実のなる教会であるように努めていきたいものであります。 (2008年6月8日宣教要旨)

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