―――言葉の回復―――

牧師 白 石 久 幸

 

我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。(創世記11章1~9節)

 一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。(使徒言行録2章1~4節)

 

今日はイエスが復活されて50日目に聖霊が降った日(ペンテコステ)です。そしてこの日はキリスト教会が誕生した日とも言われています。この日120名ほどの人々が集まっていました。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」てきます。「風」は「霊」と同じ単語です。そして「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ます。「舌」は「言葉」とも訳せます。つまり霊が言葉と共にやってきたと言うことです。だから霊の力に押し出されていろいろの国々の言葉で福音を語りだすことが出来たのです。エルサレムには世界中から帰ってきた人たちがいました。それぞれ自分の故郷の言葉が語りだされたのに驚かされます。この人たちは世界中の人たちを代表しています。大事なのはどの言語を使用したかということより、世界の人たちにとって聞かなければならない必要な福音の言葉が届けられたということです。これこそ共通の言葉です。そしてその届ける使命のために教会が誕生したといえるのです。

旧約聖書にバベルの塔の物語があります。このときは「世界中同じ言葉を使って」いました。共通の言葉です。言葉が通じ合うということは理解し合うことが出来ることにもなるでしょう。それなのに神によって塔の建設はストップがかけられてしまいます。どうしてでしょうか。

塔を立てる目的が二つ書かれています。ひとつは「全地に散らされることのないように」、もうひとつは「有名になる」ことです。神はアブラハムに「地に満ちる」約束をしています。ノアの系図を見ましても地に満ちることを書いています。つまり散らされないというのは、神に反抗して人間的な団結力を高めることになります。有名になることも、神を差し置いて、自分たちの力で、自分の名声に頼って生きていこうとする人間の高ぶりです。神を排除して、人間中心の世界を支配していこうというものです。その悪しきシンボルが塔でありました。

これは人間の高慢です。神は降ってこられます。人間は上へ行こうとしますが、神は下へ行こうとされます。それはイエス・キリストをこの世に送られることに通じます。神は人間の企てを壊されます。言葉を混乱させ、お互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまいます。

しかしもう一度言葉が回復される、それがペンテコステです。バベルの人たちは団結する事がひとつとなることであると考えたでしょうが、ひとつとなることを神は否定的に考えているわけではありません。それは一人ひとりが神と結びついていることが、一つと考えられるのです。一人ひとりに福音の言葉が届けられて、一人ひとりが神に信頼を置いていく、それがひとつのことなのです。神に信頼をおかずに集まれば何とかなるということではありません。

バベルの人たちは散らされていきましたが、散らされることが悪いわけではありません。散らされていく人たちに福音を届けることが委ねられているのです。

バベルの塔は途中で建設が中止となりました。しかしペンテコステの日からは新しく神の国の建設が始められたといえます。神をほめたたえる事業です。高慢でしかないような人間のために、神はイエスを送り、十字架にかけられ、死の世界までいかれ、私たちを支え、私たちを用いてなされる事業です。それを教会が行うために誕生したのです。

長住教会は196658日に長住団地の一室で始まりました。もう42年を過ぎて43年目に入りました。毎年この時期に集合写真を撮ります。私たちの教会もペンテコステにあずかっている教会です。もう一度教会の使命を確認して歩んで行きましょう。

 (2008年5月11日礼拝宣教要旨)

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