―――床を担いで歩け―――

 牧師 白 石 久 幸

 

 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれ考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。」…(イエスは)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

(マルコ福音書2章1〜12節)

 

 ガリラヤ湖の北側にありますカファルナウムの町にイエスはいました。そこでイエスは中風の人を治してあげます。この話のなかにマルコ福音書に初めて出てくるいくつかの言葉があります。それを拾っていきましょう。

 先ずは「信仰」という名詞形の言葉です。中風の人を4人の人が運んできます。家のなかは人で一杯なので、屋根に登り、屋根をはがして、病気の人をイエスの前に降ろします。無謀な行動をしています。この人たちは乱暴な人なのでしょうか。その頃、病気の人は罪ある人と見られていました。この4人は普通だったら関わりたくないと思う所を、何とかしてあげたいと思う心優しい人たちであったと思います。何とかしてあげたいという思いが少し過激な行動をとらせたのでしょう。でもそれはイエスに会えたらイエスが何とかしてくれるというイエスに対する信頼の行動でもあるのです。信頼するということは出来そうで出来ないものです。聖書はイエスが信頼に値する人であることを証言しています。イエスの中に飛び込んでいく、それが「信仰」と言われるものです。

 次にイエスに反対する者として律法学者の最初のつぶやきが出てきます。罪を赦すことができるのは神おひとりです。しかしイエスは神でありますから、罪を赦すことができます。でも律法学者はイエスを神だとは思っていませんから、神を冒涜しているとつぶやくのです。そのつぶやきは増殖していきます。ついには3章6節にあるように、イエスを殺すことを考えるまでになります。イエスは律法学者たちの考えはわかっていましたが、自ら神のところからやってきた者として、罪の赦しを語らないわけにはいきません。つまりその宣言は自分の命と引き換えにいっている言葉だということです。ですから私たちが罪の赦しを受けたといことは、それほどの重みのある言葉を頂いたということをしっかり認識していたいと思います。

 もう一つ最初に出てくる言葉として「人の子」があります。「人の子」それはイエスが自分自身を指していう言葉です。でもイエスが初めて「人の子」を使ったということではありません。旧約聖書にも出て来ます。「見よ、人の子のような者が雲に乗り」とダニエル書にありますが、そこでイメージされている人の子は、世界審判をする超越的な救済者です。しかしイエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と言います。ですからこの病気で苦しんでいる人に目がいったのです。

 4人の友達の信仰、イエスの宣言、イエスの仕えてくれること、これらにより中風の人は元気になり「床を担いで、皆の見ている前を出て行った」のです。これには人々が驚き、神を賛美いたします。よく床を担ぐことが、過去を背負うことにたとえられます。床についていた時は、過去に縛られて、「どうしてこんなことになったのか」といった嘆きをしていたことでしょう。しかし床を担ぐということは、過去は切り離せませんが、それを担いつつ前を向いて生きることを表しています。その転換点となったのはイエスの罪赦すことの宣言です。

 この話はただ病気を治してもらっただけの話ではありません。病気の原因と考えられていた罪が赦された話です。それなら私たち全てに関係のある話となります。そして私たちが罪赦され元気になるのはわたし一人で出来ることではないのです。周りの人たちによってイエスのもとに連れて行かれたのです。そこでイエスと出合ったのです。それなら今度は担架を担いでやってきた4人の一人となって誰かをイエスの前にお連れする一人になりましょう。そこまでには、丁度家に人が一杯いてなかなかイエスに会うことが出来なかったように、困難なこともあるでしょうが、イエスへの信仰を失うことなくお連れする一人となりましょう。

(2008年4月13日礼拝宣教要旨)

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