―――キリストの復活―――

牧師 白石久幸

 

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(コリントの信徒の手紙T 15章3〜5節)

 

 先週の金曜日はイエスが十字架にかかられた受難日でした。その日教会の星の会(中高生会)はキャンドルサービスを行いました。連盟から送られてきたプログラムを参考に、クリスマスとは違ってローソクを一本ずつ消して行くやり方をしました。イエスが晩餐で裏切る者がいることを告げた場面から始まり、十字架の死までの聖書箇所を読みながら、ローソクを消していき、最後は暗闇のなかに私たちは置かれました。そのまま一分間私たちはイエスのたどった道を思い起こしました。

 イエスが死を迎えるまで、イエスを助けようとする人が起こりませんでした。ユダも裏切りをやめようとは思いません。ペトロたちも助けようとした形跡はありません。人々も、兵士も、ただののしるだけです。

 イエスは自分の受難をある程度予測していました。人間を救うためには自分の苦しみが必要と、神から示されていたからです。しかし、その予測していることと、実際に十字架への道から逃れられないと追い詰められていくことはまったく違います。希望がひとつひとつ消えていく時、イエスは本当に苦しかったと思います。

 だがそこに光が差し込んできたのです。神はイエスを死より起こされたのです。神の力は死よりも強いのです。神がイエスを復活させることで私たちに示されたのは、私たちも死に支配されないことと、罪による罰の赦しです。死を恐れることがなくなり、罰を恐れることがなくなるとき私たちは今までとは違う生き方へと招かれるのです。復活のイエスは私たちに現れてくれるのです。

 パウロも復活のイエスに会った一人です。パウロはイエスが生きている間は会っていません。そういう意味では私たちと同じです。でもイエスと会うまでのパウロは私たちとは違います。パウロはキリスト者を、突き詰めればイエスを迫害していたからです。「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と言っているのはそのことです。会ってもらえるような資格のない者にもイエスは会って下さるのです。そしてパウロを伝道者へと招きます。

 パウロの伝道者としての働きは大きいもので、誰もが認めます。でもパウロはそれを自分の手柄や自分の力量に還元するようなことはしていません。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言います。神の恵み―それは迫害者をも用いてくださり、苦労はあるもののイエスのために働けるすばらしい人生を送ることができるようにして下さったこと、パウロの今を神が決めていて下さることです。私たちも「神の恵みによって今日のわたしがある」と言えたら何とすばらしいことかと思います。復活のイエスはそれをして下さるのです。

 さて人々は大事なことを短い言葉で伝えようとしました。信仰告白と言ってもいいものです。それが次の聖書の言葉です。イエス・キリストが「死んだこと、葬られたこと、復活したこと、現れたこと」です。人々はそれが旧約聖書に書かれていると理解しました。具体的にはどこを指すかはわかりませんが、例えばイザヤ53章、詩編16章10節、ホセア6章2節などが考えられます。

この信仰告白は古代から現代に至るまで大切にされてきました。ここに私たちの希望、新しい出発、生活の支えがあるからです。私たちはキリスト以外のところに希望や出発や支えを求めないようにしたいものです。パウロは1節で「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころをしている福音にほかなりません」と言っています。「生活のよりどころ」という言葉がいいと思います。私たちは福音を生活のよりどころとしているのでしょうか。私たちの人生を福音の上に築きあげようとしているのでしょうか。復活したイエスは私たちにそのことを願って今日も現れてくださっています。

 (2008年3月23日イースター礼拝宣教要旨)

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