―――恵みの言葉に委ねる―――

 牧師 白 石 久 幸

 

 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。……そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。(使徒言行録2025~35節)

 

 パウロは10年間に3回世界伝道旅行をし、今エルサレムに帰る途中です。ミレトスの町にエフェソ教会の人を呼び、最後の話をするのです。それはエルサレムに着いたら投獄と苦難が待ち受けていることがわかっていたからです。それでもエルサレムに行くのは、エルサレム教会に異邦人たちがクリスチャンになったことを認めてもらうことや、献金を届けることなどの使命があったからです。パウロはそのような「任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と言うのです。どこからそんな勇気が湧いてくるのでしょうか。それは福音の力としか言い様がありません。福音には人を動かす力があります。イエス・キリストが自分の命をかけて私たちをお救いくださったからです。

 さてパウロはエフェソ教会の長老たちにお願いします。「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」。それは教会が生きているからです。私たちが生きているということは健康であるわけです。しかし生きているからこそ病気にもなったりします。教会も元気な時もあれば、弱ったり不健康になったりすることもあります。パウロが心配しているのは福音以外のものを教会に持ち込んで教会を乱す人たちがいるということです。そのため眼を覚まし、気を配り、祈ってほしいと言うのです。教会はみ子の血によって贖いだされた人々の群れです。福音以外のものが教会を支配するとなれば、それはイエスの十字架の死が無駄になりかねないことになります。それは私たちが福音にどれだけ責任を持って生きていこうとしているかという問いでもあります。

 これは永遠の命についての文章ですがこうあります。「人生がみじめなものだ、あるいは退屈なだけだと思っている人には、よみがえりという言葉の強さや力は、とうてい分からないでしょう。生命を愛している人のみが、それを失うことはどういうことが、生命を得ること、永遠の生命を得る確証を持つとはどんなことかを理解できるのです」。当たり前のようですが、福音に対する責任ある生き方を指し示しているように感じます。指し示していく、それが長老たちの務めでありましょう。

 パウロの顔を二度と見ることができない今、長老たちは誰を頼りにしていけばいいのでしょうか。パウロはみ言葉に聞いていくように言います。パウロは自分の影響力を少しでも残していこうなどとは考えてはいません。残せるのは主のみ言葉です。み言葉は私たちを造り上げていきます。それは聖書を読むことでなされていきます。具体的なことをいえば、通読をお勧めします。箇所を決めて毎日読んでいく。読むときには、神からの語りかけと信じて、わかったところを喜んでいくのです。聖書がわかってくると神がわかってきます。肉の体は調子が悪いときは痛いとか熱を出すとかサインが来ます。だから気をつけて元の元気な体に戻そうとします。しかし霊の体はサインが来ません。聖書を読まなくても肉体的には生きていけます。でも気がつくと霊の体はやせ細ってしまっているかもしれません。自分で気をつけるしかないのです。読み続けるうちにクリスチャンとして成長もします。パウロは出来てまだ新しいエフェソ教会の成長をみ言葉にゆだねるのです。

 この箇所は使徒言行録のなかでパウロがクリスチャン向けに語った唯一の説教です。それがお別れ説教になってしまっています。急ぎの旅のなかで3~4日も待ってでも伝えたかったことが良くわかります。神が語ってくださっているみ言葉を一生懸命読んでいく、神が贖いとってくれた教会に責任を持って生きていく、神が広めようとした福音をひるむことなく伝えていく。パウロの真剣な思いがひたひたと伝わってくる思いがします。私たちも福音に一生懸命生きていきたいものです。

     (2008210日宣教要旨)

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