―――主イエスを信じなさい―――

牧師 白 石 久 幸

 

 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。(使徒言行録16章16〜34節)

 

 フィリピの町でパウロたちは霊に取り付かれた女奴隷から霊を追い出します。そのため奴隷の主人らが、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロを捕まえて高官に引き渡してしまいました。パウロたちは鞭打たれ、足かせをはめられ、一番奥の牢に入れられ、厳重に見張られた状況におりました。もう時は真夜中です。パウロたちはこの日の疲れを感じ眠ってしまうような時間です。しかしパウロたちは真夜中にもかかわらず、賛美の歌をうたい、神に祈っていました。囚人たちも聞いていたわけですからパウロたちは声を出して歌い祈っていたのでしょう。囚人たちがうるさいと騒がなかったのが不思議です。囚人たちにも心惹かれるものがあったのでしょう。誰でも神に向かう気持ちはあるものです。

 賛美とは何でしょう。それは神をほめたたえることです。でもパウロたちは不当にも捕らえられているのです。そのような状況なのに神はすばらしいと歌うのです。私たちにはなかなか出来ないことかもしれません。祈りとは何でしょう。神にお話しすることです。パウロたちは普通でしたら助けてほしいと祈るところでしょうが、後の様子を見ますと、こういう状況のなかでも囚人たちのことや看守のこと、フィリピの町の人たちに福音が伝わるように祈ったと考えられます。自分たちのことは後回しです。パウロたちがどんな状況のなかでも、このような賛美と祈りができたのは、神が彼らの中心におられたからだと思います。神第一にしていく姿勢が、周りの状況に左右されずに、神との結びつきにおいて賛美と祈りができるようにしてくれたと考えられます。

 さて神は地震という形で介入されます。みんな逃げることができる状況になりましたが、それをしませんでした。ほかの囚人たちもしなかったのが不思議です。自分さえよければという考えにならなかったようです。それは看守のことを考えていたからです。逃げてしまえば看守は責任を取らされるのです。だから看守は自害しようとしたのです。パウロは大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と叫びます。命は大切です。みんな看守が自害しないように願っています。パウロの信じている神は人を生かしこそすれ、死に追いやってはいけないのです。

 看守は助かったと思ったでしょう。しかしそれだけでなく逃げもせず自分を助けてくれるパウロたちの信じている神を自分も信じたいと思いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と問うのです。その答えは「主イエスを信じなさい」と言うものです。

 地震は神の介入ですが、看守がそれまで生きてきた人生の土台をゆすぶっているかのようです。「主イエスを信じなさい」は、原文では「主イエスの上に」です。イエスの上に自分を置く、信頼して委ねる、ということです。信じるというのは信頼を置く、確信を置くということで、イエス・キリストに信頼して歩くということです。自分のほうに重心がかかるわけではなくイエスに身を置いていくのです。

 パウロたちは自分たちの打ち傷を洗ってもらう前に、看守とその家族に主の言葉を語り聞かせました。また食事をする前に看守とその家族にバプテスマを施しています。パウロたちが何を第一のことにしているかかがよくわかります。

 私たちは真夜中としか思えない状況に立たされることもあるかもしれません。看守が最初に感じたように絶望することもあるかもしれません。でもそういうときこそ「主イエスを信じなさい」との声が聞こえてきます。イエスはどんな時にも共におられる方です。見捨てたりはしません。この問いかけにいつも「はい、信じます」と答える者でありたい。そこから私たちも賛美と祈りのできる者へとなっていけるのです。

     (2008年1月6日宣教要旨)

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