―――思いを超える祈り―――

牧師 白石 久幸

 

 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」……しかしペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。(使徒言行録12章6〜19節)

 

 まず神の導きについて考えましょう。ペトロは捕らえられ厳重な見張りの中にいました。人間がいくら警戒しても、神には勝てません。神はペトロを逃がしますが、それがユーモラスに書かれています。引き出される前の夜、天使がやってきて、ペトロの脇をつついて起こします。帯を締め、履物をはかせ、上着を着せ、ちゃんと身支度をさせてから外に連れ出します。ペトロは現実なのか夢なのかはっきりしないまま、天使の言われる通りにします。そして言われる通りに外に出て行きます。天使が離れ去ったあと、我に返り「初めて本当のことが分かった」と言います。

 このことは大事なことであります。神のことは私たちまだ十分わからないかもしれませんが、分からないままにでも神に従っていくという時に、ペトロと同じように「今、初めて本当のことが分かった」と私たちも言える時がくるのです。

 「本当のこと」とは何でしょうか。それは神の真実が分かった、真実が私の所にもやってきたということです。ただ奇跡を体験したということでなく、神の自分を思っていてくれる思いが届いたということです。ペトロは自分の死を覚悟していました。絶望が支配する中で、神が働いておられるということです。ペトロを閉じ込めていたものから解放され自由になった、それはどんな状況の中にあっても、神は私たちのことを忘れずに働かれるということです。私たちの人生で、まさに牢の中に閉じ込められているかのようにしか思えない時があるかもしれません。でもそこから解放される体験もしているはずです。私たちも「本当のこと」を体験する人生を歩んでいるのです。

 次に祈りということをみましょう。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(5節)とあります。教会のなしうる戦いの武器は祈りであります。教会から祈りをとったならば、まさに味の失なわれた塩であります。そしてその祈りが聞かれたにもかかわらず、信じないというこれもまたユーモラスな話が載っています。

 ペトロは解放されてみんなが待っている教会に行きます。取次ぎに出てきた女中は、ペトロの声であることに気づき家の人に知らせますが誰も信じません。教会の人たちは祈ってはいますが祈りが聞かれるとは考えていなかったのでしょうか。「それはペトロを守る天使だろう」と言います。神は私たちの思いを超えて事をなしてくださいます。不信仰な私たちの祈りを斥けるのではなく、不信仰なその祈りを聞いて実現させてくださるのです。その証人がペトロです。私たちも願い事を祈るでしょう。それはまだ聞かれていないと考えているかもしれません。でもひょっとしたら今すでに聞かれていることを神は私たちに教えようとされているのかもしれません。

 ペトロは自分であること、それは神の真実がやってきたことを分からせるために戸をたたき続けました。戸をたたくしかないのです。中から鍵がかかっていたからです。教会の人は戸を開けることで、ペトロがいることを知り、非常に驚きます。同じように神の真実がやってきたことを叩くことで伝えようとしている方がおられます。イエスです。黙示録3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。私たちも心の戸を開くことでイエスが入ってきてくださいます。この罪の世に救い主がやってきてくれました。人間の不信仰にもかかわらず、それを超えて神の真実がやってきたのです。私たちの出来ることはただ戸を開くだけです。

 人間の企てを超えて神の力強い導きがあります。人間の不信仰な祈りを超えて神は真実を実現していくのです。

(2007年11月4日宣教要旨)

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