―――分け隔てせず―――

                                牧師 白石 久幸

 

 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に施しをし、絶えず神に祈っていた。……翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の十二時ごろである。……そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」

(使徒言行録10章1節〜11章18節)

 

 ここに出てきますコルネリウスとペトロは普通だったら出会わない二人でした。それが出会ったのは神によります。コルネリウスはローマの町と言えるカイサリアに住む異邦人でした。神を畏れる人ではあってもユダヤ教に改宗することまではしていません。しかしユダヤ人と同じく施しや祈りはしていました。ペトロは12弟子の一人でユダヤ教の町と言えるヤッファに近づいています。

 全く違う二人が出会うことになるのに共通するところもありました。それは二人とも祈っていたということです。祈りのときに神から示されることがあります。祈りは私たちの方から神に話しかけるだけでなく、神のほうからの話しかけでもあります。もし私たちが祈らないならばそれは神の話を聞き損ねることになります。神を人生の導き手とするということは、神の話しかけを聞くことであります。

 さてそこでの神の指示は何であったでしょうか。コルネリウスにはペトロのところに人をやって迎えるようにということです。ペトロには幻で、律法では食べてはいけないことになっている動物を見せ、食べるように指示をします。ペトロはユダヤ人として律法に忠実でしたから断りますが、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声を聞きます。そしてコルネリウスの所からやってくる人と共に出かけるように指示をします。しかし二人とも神の指示を聞いても、それがどういう目的があるのかまでは聞いていませんでした。しかし神の指示に素直に従うのです。私たちも従うというとき、納得し、見通しが立ち、安心し、すべてが整えられてからというのではなく、時にはどうなるのか分からないかもしれませんが、信仰の冒険があってもよいのでしょう。

 ペトロが見せられた幻は、食べ物のことではなく人のことを言っていることがわかってきました。ユダヤ人は外国人と交際していませんでしたが、神はユダヤ人であろうと外国人であろうと愛しているのです。コルネリウスに出会うことでそのことがはっきり分かってきました。そこで「神は人を分け隔てなさらない」という、とても大事なことを教えられるのです。聖書の中にそのことが繰り返し出てきます。神はどんな立場にいる人でも平等に愛してくれるのです。こんな大事なことをペトロは、本来なら弟子として語らなければいけないはずなのに、コルネリウスに出会わされることで発見するのです。一方コルネリウスもペテロを通して語られるイエスの福音、誕生から十字架そして復活までのイエスの話を聞き、さらにイエスを信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられることを聞いて、イエスを信じるものに変えさせられたのです。コルネリウスは神を畏れる人でしたので、(旧約)聖書を読んでいたかもしれませんが、イエスのことまで読み取れなかったのです。どちらも大事なことを自分ひとりでは発見できませんでした。神によって出会わないであろう二人が出会わされたことにより「よくわかった」のです。私たちも大事な神の教えを一人で発見できるものではありません。出会いを通して教えていただくのです。それはその後の人生を方向づけるものになるでしょう。

 神は驚くような方法で教えてくださいます。ですから私たちも出会いということを大切にしていきたいものです。またコルネリウスもペトロも変えられていく柔軟さがありました。かたくなに心を閉じていたら何も変わりません。福音そのものは変えられるものではありません。ペトロも変えたりはしないでイエスの十字架と復活を語ったのです。でも人に出会うために柔軟になった。教会も新しい人を迎えるために、時には柔軟になっていきたい。いま主の日のプログラムを検討しています。これなども出会いを求めてのものといえます。教会のひろがりが生まれるのを期待しています。

(2007年10月21日宣教要旨)

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