―――信仰・希望・愛―――

牧師 白石 久幸

 

 今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 (Tコリント13章12〜13節)

 

 本日は召天者記念礼拝です。写真を飾って礼拝を守るのは一年に一回ですが、この方々も天において礼拝をしているので、いつでも神にあってひとつであります。しかしこの世で会えないことは残念です。写真を見て思い出されるのは、笑顔で話しかけてくださったことや、迎えてくれたことなどです。それがとても印象深く残っています。そういう意味では、私たちも笑顔の素敵な人になりたいと思います。

 天に帰るというとこの世の楽しみがすべて終わってしまって、ただ後の人生を過ごすような気になってしまいます。しかしこの世では味わうことのできない喜びが天で待っているのです。それは顔と顔を合わせて見るということです。最近はメールのやり取りが多いですが、メールだけですとよく本意が伝わらないことも多いのです。それはただ文字だけで、それを伝える人の気持ちは伝わりにくいからです。そのためすぐに誤解が生じてしまいます。人と会って、直接顔と顔を合わせて話をするときに始めてその人の本意が伝わるといえます。

 私たちは神について分からないことが多くあります。神が私たちのまわりに起こされたことについて分からないことが多くあります。なぜあの人は若くして亡くなったのか、なぜあの人は苦しむような病気になったのか。この世では解けないことがたくさんあります。でも天に帰り、神と直接お目にかかるときに、神がその疑問に答えてくれるのではないかと思っています。それまでは疑問のままかもしれませんが、いつか神は教えてくれることを信じています。

 また神に会うということは神様の愛がさらによくわかるといえます。愛の定義が13章に載っています。忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢しない、高ぶらない、など。そのどれもすばらしいものです。そしてよく言われることは、ここの愛は人間でなく神について言われているということです。ここに書かれていることを全体的に言うと、自分にしがみつかない、自分から離れることができる愛だということです。自己愛からの解放ともいえます。それは人間には難しいのです。でも神はみ子イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけることを許されたのです。罪人のために十字架につけたのです。見返りの無い愛です。そういう愛の神に会えるということは楽しみです。私たちの営みはやがて消えていきますが、神の愛は「決して滅びない」のです。召された方々の上に今も注がれているのです。

 私たちは神を十分に捉え切れていません。神を知っているといっても、「鏡におぼろげに映ったものを見ている」に過ぎません。ですから天に帰る道すがらは実にあやふやなものです。でも私たちは神を捉えられなくても、神の方は私たちをはっきり知っておられるのです。私たちは「はっきり知られている」と言われています。神は何が人間の心の中にあるかをよく知っておられるのです。詩編には「わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(139:13)と、生まれる前から私を知っておられることまで書かれています。神は私たちから離れずに捉えていてくださるのです。

 ですから私たちに必要なことは、私たちをよく知っておられる神に信頼を置いていく信仰と、また天でお目にかかれるという希望と、神の愛を受け神と人を愛していこうとする愛が必要なことなのです。

 私たちは神が許される限りこの世で生活をしていきます。この世のことが相対的であるからといって、どうでもよいことではありません。与えられたところでの与えられた使命を尽くしていくことは大切です。教会を建て上げていく、家庭を建て上げていく、人生を建て上げていく。どのような場合でも、私たちは神と離れた営みはありません。神とのつながりの中で生きていきます。そのときに私たちは信仰・希望・愛をもって生きていくことが大切です。召された方々を前に私たちは恥じない生き方をしていきましょう。 (2007年9月23日 宣教要旨)

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