―――神の平和―――

牧師 白石久幸

 

 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ2章4節)

 

 ここに剣と槍が出てきます。どちらも人を傷つけ殺すこともできる道具です。いわば戦うための武器です。今で言えば戦車とかミサイル、原子爆弾ということになります。一方鋤と鎌は生活のための道具です。毎日の食料を生み出すためのものです。イザヤは戦う道具を捨て、生活する道具をもてば平和に暮らせるようになる、いつかそのような時が来ると語ります。今から2700年前のことです。

 ある本にワニの話が載っていました。ワニは目の前に来たものに反射的に噛み付いてしまう危険な動物です。ワニはあまり識別能力や判断力が発達していな動物らしく、自分の子どもでも反射的にかみ殺してしまうことがあるそうです。それはワニの脳が攻撃するほうの仕組みが発達し、それを抑える仕組みが充分に備わっていないからだそうです。そしてワニの脳は人間の脳の中にも住んでいるというのです。ただ人間の脳は押さえる仕組み、理性といいましょうか、それが発達しているために普段は攻撃的にならずにいるのですが、ワニの脳が無くなったわけではないので、人間に武器を持たすと攻撃的になる可能性はあります。

 イザヤはそのことを科学的には知らないでしょうが、体験的には知っていたでしょう。なぜなら戦いがやむことがないという悲しい現実を知っていたからです。イザヤは神が平和をもたらしてくれることを信じてはいましたが、それまでに悲しい戦いが続くのも知っていました。

 ここに地図を持ってきました(夏期学校では紹介)。今の世界のあちこちでまだ戦いが行われている国や、食べるのに困っている国や、自然災害で痛手をこうむった国などが濃く書かれています。世界の多くの国が大変苦しんでいることが分かります。でも実感として私たちはよく分からないのです。私たちは食べるのに困ったことがほとんどありません。鉄砲の弾が飛んでくることなどもありません。困っているのは遠い国で、自分と関係ないからそれでいいのでしょうか。日本の中にも生活に困っている人たちがいます。でも私たちの毎日の生活と関係ないから、それでいいのでしょうか。それは違うでしょう。

 神は私だけを造られたわけでなく、私たちを造られたのです。私たちの世界も造られました。その世界全体に神の平和が満ちることを願っています。そのためにイエスも来られました。

 イエスは「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:8)と言われましたが、それを率先して行ったのはイエスご自身です。イエスの平和を実現するためにとった方法は、力、武力を用いないということです。「剣を取る者はみな剣で滅びる」(マタイ26:52)からです。十字架の上でも天の軍勢をお呼びにはなりませんでした。力での平和は、また力で勝ち取ろうとする勢力が生まれるからです。その繰り返しでは平和はやってきません。

 イエスのとった方法は弱い人たちを大事にする、仲間になることでした。女の人たち、子どもたち、病気の人たち、罪人と呼ばれる人たちなど、一緒に食事を取り、神の国のお話をする。そういう中に神の平和は宿るといえます。

 イザヤはイエスより700年前の人です。イザヤが願った剣や槍を捨てることをイエスも言いました。それは実現していないからです。イエスが行ったことは2000年後の今日も言わなければいけません。それは神の平和が実現していないからです。いつか神の平和がやってくる。しかしそれまでにはまだ悲しい戦いや出来事が続くのでしょう。

 私たちはイエスを信じています。イエスと出会いクリスチャンになりました。それは自分の平安、自分の生きがい、自分の喜びを得ることではありますが、ただそれだけではありません。イエスの夢を実現するためのお手伝いをする、それがクリスチャンです。お手伝いをしたいと願うことができたらもうクリスチャンです。お祈りしたり、募金に協力したり、ボランティアに行くとか、宣教師を支えるとか小さなことしか出来ないかもしれませんが、私たちも神の平和を実現する者の一人となりましょう。 (2007年8月12日 夏期学校での礼拝宣教要旨)

inserted by FC2 system