< 宣教ダイジェスト2007年6月

―――執り成しの霊―――

 牧師 白 石 久 幸   

 

 ……同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。…… (ローマの信徒の手紙8章18〜30節)

 

 先日長住小学校の2年生が校区探検の授業で教会を訪ねてきてくれました。いつかこの子どもたちが教会に来てくれないかと期待をかけてしまいます。そして私たちの信仰も将来に期待することが含まれています。パウロは「現在の苦しみ」と「将来わたしたちに現されるはずの栄光」(18節)を書いています。それを被造物とクリスチャンに当てはめて話を進めます。

 「被造物は虚無に服し」、「被造物はすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっている」、しかし「いつか滅びの隷属から解放され」る「希望を持っています」(19〜22節)。また「霊の初穂をいただいているわたしたちも、……体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(23節)と言います。

 「うめき」という言葉が出てきます。それをある人は「悲惨ということを知っていること」と説明していました。自然の悲惨さ、自分の悲惨さ、なんともならない罪の問題を深く知っているということでしょう。私は連盟の「隣人に出会う旅」の事前学習会の沖縄を担当し、今新聞の切り抜きもしています。そこには、教科書検定で沖縄での集団自決をめぐる記事から「日本軍の強制」が削除されることに対して、沖縄県議会が撤回を求める意見書を、自民党も賛成して可決する見通しであることが載っていました。戦争の悲惨さを知っているがゆえに、現状を憂いています。悲惨さを知っている者のうめきが聞こえてくるようです。それだけまた平和に対する希望も強いと思われます。

 それを神との関係でいえば、罪を知っている人間の悲惨さ、パウロの言葉で言えば「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(7章24節)ということを知っている者が、うめきを知り、うめきを知る者が待ちの望むことを知っているのであります。その待ち望む信仰は私一人が頑張っていくということではなく、応援してくれる方がおられるのです。それが“霊”つまり聖霊です。

その聖霊は私たちの祈りを助けてくれます。私たちは自分の願いは言えても、神の御心に添うお祈りはなかなかできません。的外れのお祈りをしているのでしょう。そもそもお祈りすらできない者なのかもしれません。私は教会に行き始めた頃お祈りが嫌でした。嫌といってもまだクリスチャンではありませんからすることもありませんでした。しかしある日お祈りをしなければいけない状況になり、決意して順番を待って「神様」と声に出してお祈りをしました。その時の内容は忘れましたが、ただ嬉しいものが心に残ったことだけ今でも覚えています。その後今日の箇所と出会いました。祈りは一人でしているのでなく聖霊が助けてくれること、私の思いを聖霊が神様に届けてくれることを知りました。それ以来聖霊に頼りながらお祈りをしています。だからといっていつも神様の御心に添うお祈りができているわけではありません。そのような私だからこそ聖霊もうめきつつ執り成しをして下さるのです。それは大変なことです。丁度イエス・キリストが十字架で執り成してくださったと同じほど大変なことであると思います。

私たちは「体が贖われる」のを待ち望む信仰を持ち続けます。しかしそれもまた途中で放り投げてしまいたくなる時もあります。そういうときに聖霊はイエス・キリストの十字架の恵みにおいて私たちが救われたことを思い出させてくれるのでしょう。忍耐を持って私たちを励まし続けてくれるのです。

私たちはたぶん手を焼くような神の子どもたちなのでしょう。祈れないとか十字架を忘れるとか、だからこそ聖霊もうめきを持ってでしたか執り成しができないのかもしれません。今は私たちも被造物もうめきの中にいて苦しんでいるかもしれません。しかしその中にだけ埋没してしまわないように、現される栄光の時があることを信じ、希望を持ち続ける、それが私たちの信仰です。聖霊に助けていただきながら、歩んでいきましょう。 (2007年6月17日 宣教要旨)

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