―――罪と恵み―――

                                                  牧師 白石 久幸

 

 一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。……罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。

           (ローマの信徒への手紙5章12〜21節)

 

 「一人の罪」、それはアダムの罪の事をいっています。それは創世記2・3章に書かれています。「善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」との神の命令に対して、アダムが神に従わずに自分のことはすべて自分の知恵と自分の力で何事でもできるかのように思い、神に不従順になりました。それが罪です。不従順ということは神との関係が壊れていることで、そのために神の命が流れてこないことです。ですからわたしたちは霊的な死を体験しますし、裁きとしての肉体的な死をも体験します。夢だったらまたやり直しがきくのでしょうが、死は現実だから怖ろしいのです。アダムは神話の中の話としてかたづけられません。なぜならアダムという一人の人の名で全人類を現しているからです。アダムがわたし、わたしがアダムです。

 さてパウロはここでもう一人の人を登場させます。それはもちろんイエス・キリストです。そしてイエスはアダムと全く逆のことが言われています。「一人の罪」と「一人の正しい行為」。「有罪の判決」と「義とされ命を得ること」。「多くの人が罪人とされた」ことと「多くの人が正しい者とされる」こと。アダムは誘惑に負けてしまいますが、イエスは宣教の始めの荒野での誘惑にも、十字架を前にしてのゲッセマネの園での祈りでも誘惑に打ち勝っています。アダムが罪を犯し全人類を包み込んだように、イエスは十字架において全人類を包み込みます。十字架で赦される私たちは「不信心」「罪人」「敵」、つまりアダムであったのですが、その私たちを赦すために十字架につけられたのです。

 パウロはここで言いたいことはアダムの世界とイエスの世界がどちらも同じような力を持っていることではなく、イエスの世界がはるかにしのいでいる、イエスの世界がアダムの世界を飲み込んでいるのだ、ということです。

 パウロはイエスの世界の方が強く、比較ができないことを、15節16節17節と繰り返し強調しているのです。「イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」。「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。

 パウロはくどいほどに繰り返しイエスの恵みが支配していることを言います。それは私たちが罪の現実の方に目が行ってしまいがちだからなのではないでしょうか。世の中は暗いニュースが多くあります。経済も格差社会といわれ、政治も平和憲法が壊されかねない法案が通り、社会も身内を殺害することなど、理不尽で納得がいかないことも多くあります。そういう暗くなってしまう世の中で、なお「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」ことを信じていけるのか、ということです。まだ罪の力は世界を巻き込んでいます。しかしそれ以上に「イエス・キリストの恵みも義によって支配しつつ」あることを信じていくことがクリスチャンの努めであるといえるのです。

 今日の箇所の前1〜11節は元旦礼拝で取り上げました。その時2節「今立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ」(口語訳)とあります。私たちは「キリストのお陰で」「恵み」という立場に立たされているのです。そこに立ち続けたいとお話しました。そこが出発点であります。そしてゴールを目指していくのです。それから5ヶ月が経ちましたが、しっかり立ち続けているでしょうか。毎日を大切に過ごすことより、ただ忙しさだけで過ごしていないでしょうか。もう一度どこに立ち、どこを目指して歩むのか思い起こしていきましょう。

                (2007年5月13日宣教要旨)

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