―――恵みを受けて―――

                       牧師 白石 久幸

 

 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから……神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。(ローマの信徒への手紙1章1〜7節)

 

 パウロはこの手紙でまだ行ったことのないローマの教会の人たちに挨拶をしています。初めての手紙ですからパウロは自己紹介をするのです。パウロは紀元前後にキリキヤ州のタルソスで生まれました。ユダヤ名をサウロ、ギリシャ名をパウロといいます。ローマの市民権を持ち、教師ガマリエルについて律法をよく学び、キリスト教の迫害者でもありました。途中復活のキリストと出会い、回心し今度はキリスト教の宣教師になりました。最後は紀元後60年前後ローマで処刑されたといわれます。私たちが初めて会う人に聞きたいと思う事柄は、上記のような、どこで生まれ何歳で今何をしているかなどです。しかしパウロはそのようなことをここには全く書いていないのです。ただ自分は恵みを受けて使徒とされた者、それだけです。それがパウロの自己理解です。

 まず「キリスト・イエスの僕」といいます。僕は奴隷とも訳せます。罪の僕ではなく、キリストの僕です。そこには服従するということも含まれています。しかしそれは服従できる嬉しさも入っています。

 次に「神の福音のために選び出され」と言います。キリストこそ福音でありますが、すべての民に宣べ伝えるためにパウロは選び出されたのです。「母の胎内にあるときから…召し出してくださった」とパウロは言いますが、それほどに深い確信にもとづいています。

 そして「召されて使徒となった」と言います。どんなにリーダーシップがあっても神からの召命があってはじめて出来ることです。

 以上のようにパウロは神によって立てられた自分、神の恵みのもとにいる自分を紹介するのです。そしてこれはパウロだけが持っているものではありません。相手先のローマの人たちも「召されて聖なる者となった」といっています。またそれは私たちのことでもあります。私たちもその生活も恵みのもとに置かれているのです。

 1月9日の朝のラジオ番組で詩人の荒川洋治さんが日記のことについて語っていました。個人でつける日記は多くは自分の楽しみのためのもので発表したりはしません。発表もしないのに日記を書くのはどこが楽しいのかというと、荒川さんは、夜日記をつけるときに、それがメモ程度のものであっても、ふと今日一日がどんな日であったかを振り返る、そのときが至福の時だというのです。それを聞いて思うのは、私たちクリスチャンも寝る前に一分間でもいい、お祈りするなり黙想するなりすることは、至福の時なのではないか。今日もまたいろいろ大変なことはあったかもしれないし、体も疲れたかもしれないが、今日の一日もやはり神の恵みのもとにいたことを知るのです。私たちはパウロのように直接の伝道者ではありません。しかし社会や家庭につかわされた者ということでいえば、みんな使徒です。恵みを受けて使徒とされているのです。

 パウロは3・4節で当時の共通した告白文と思われるものを引用しています。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。「定められた」と言うのは、それまで人間として歩まれていた時に隠されていて、人に理解されなかったが、イエスは神だということを公にしたということです。弟子たちがイエスを理解できなかったのは、神としてのイエスが隠されていたからです。そのことを責めても仕方ありません。むしろ人間がイエスを神の子と定めたのではなく、人間の評価や印象でイエスが決められてしまうわけではなく、神がイエスをキリストとしたのです。この事実が無理解な弟子たちを使徒として活躍するように彼らをひっくり返したのです。そしてこの事実が、迫害者であったパウロをも変えたのです。そして恵みを受けて使徒とされたのです。そして私たちにもこの事実がぶつかってきて、神の恵みのもとにいる自分に変えられたのです。自分の経歴や生い立ちなどでなく、恵みのもとに自分がいるという自己理解が大切なのです。

                (2007年2月4日 宣教要旨)

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