注がれる神の愛

牧師 白石 久幸

 

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間の平和を得ており、キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ローマの信徒への手紙5章1〜2節)

 

 今日から新しい年がスタートしますが、今年末の12月31日を見据えながら歩みたく思います。大晦日に何かあるわけではありません。そうでなく毎日の生活にただ追われるのでなく、方向を見失わないためにスタートとゴールを考えたいのです。

 まずスタートする地点ですが、2節の「今の恵み」は口語訳ですと「いま立っているこの恵み」となります。私たちが導きいれられ、立たされている場が恵みというところだということです。社会的立場はみんな違いますが、教会ではみんな同じ立場に立つのです。この立場は自分で獲得したものではなく、「キリストのお陰」です。キリストによって神との間の平和を得ることが出来たということが、恵みなのです。

 イエス・キリストの十字架によって私たちの罪は取り除けられ、神との平和を得たのです。神が私たちの罪を罰する神ではないということです。一面では神にたいして罪の自覚を持ちながら、他方ではその当然の結果である神の罰を恐れる心を持たないで生活するところに、義とされた者の生活、いま立っている恵みの場ということがいえるのです。

 立ち続けるには意志が必要です。私たちはこの一年を始めるにあたって、私たちが導きいれられた場を再確認することが大切です。

 では何を目指していくのでしょうか。2節後半の「神の栄光にあずかる希望」であります。それは神につくられた者として完全な姿が実現されることを言います。ですから復活のこと、終末のことです。しかしそれは確かな希望です。イエス・キリストの復活で分かります。これは終末のことですから12月31日に完成するわけではありません。しかし私たちの向かう方向性が示されています。今の立場から、神の栄光にあずかることを希望して歩みだすのです。その歩み方のヒントが聖書に書かれています。それは誇りです。

 「希望を誇り」とあり、「そればかりでなく、苦難をも誇りにしています」(3節)とあります。誇りは胸を張って生きていくために必要なものです。しかしパウロは自分を絶対なものとする、自分を誇ることの危険性も知っています。だからパウロは誇らねばならないなら「わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(Uコリント11章30節)と言っています。そこにはイエス・キリストの助け、があることを知っているからです。イエス・キリストの助けがあることを誇るのです。

 一年間平穏に過ごしたいと私たちは願います。しかし苦しみも苦難もやってきます。それを避けて通ることは出来ません。しかしその中にあっても、イエス・キリストの助けがあり、導きがあり、希望へとつながっていくことを知っています。だからたとえ苦難がやってきたとしても、それを受けて立つ信仰が私たちにはあるのです。

そして3節4節のみ言葉が私たちの助けとなります。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」これはパウロの体験から確信していることです。忍耐は信仰的に動揺しないことです。練達はキリスト教徒が試され打ち勝つこと。そして希望が生まれます。そして「希望はわたしたちを欺くことがありません」。なぜなら「神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5節)。

 神の愛は「キリストがわたしたちのために死んでくださったこと」(8節)によって分かります。その時のわたしたち人間の姿を「弱かった」「不信心な者」(6節)「罪人」(8節)「敵」(10節)と表現しています。そのような者のために死んでくださったのです。そういう神の愛が私たちの中に注ぎ込まれているのです。たとえ苦難がやってきたとしても、そのままにして置かれる神ではありません。神は味方なのです。神は助けてくださるのです。神を誇りとするのです。だから恐れることなくこの一年をあゆみたい。そして今の導きいれられた恵みの立場に立ちつつ、神の栄光に預かることを目標にあゆみを続けていきましょう。

                (2007年1月1日宣教要旨)

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