生きた水

 牧師 白 石 久 幸

 

 祭りが最も盛大に祝われる終りの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7章37~38節)

 

 イエスは人々に自分のところに来るように招いておられます。どういう人を招いているかと言えば、それは渇いている人です。心に渇きをもたぬ人はいないでしょう。でもその渇きは神にしかいやされないのにもかかわらず、多くの人は別のものによって満たそうとします。

 詩編63篇を見ますと、ダビデが荒野に逃げていきますが、「わたしの魂はあなたを渇き求めます」(2節)と心の渇きを言っています。その渇きのいやしをどこから受けたかと言いますと、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄を見ています。……わたしの魂は満ちたりました……わたしの口は讃美の声をあげます」(3~6節)とあるように、神によって満たされているのです。

 今日のところに戻れば神から来たところのイエスによってしか人々の渇きは満たされないという事です。イエスは「わたしは勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実である……わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(7章28〜29節)と言われます。だからイエスは大声を上げて人々を招くのです。

 そこで大事な問いは、イエスの招きに私たちは渇きを覚える者として、イエスの前に出て行く者なのかどうかです。イエスの言葉を自分の招待の言葉として受けとめているかどうかです。

この日は仮庵祭が盛大に祝われる終りの日、人々の気持ちも高まっています。人々はエルサレムに押し寄せてきています。そこにはいろんな人たちが来ていました。その人たちに向かってイエスは大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われるのです。でも祭りの雰囲気の中人々はイエスのところに行こうとしません。

 そこにはイエスの兄弟たちもいました。イエスと幼い時から一緒に育ったわけですから、イエスのことはよくわかっていたでしょう。だからイエスの本来の姿を見失わせていたのです。また人々もたくさん出てきます。人々のイエスの反応はまちまちです。「良い人だ」「この人はメシアだ」と言う人もいれば、「群衆を惑わしている」「メシアはガリラヤから出るだろうか」と言う人もいます。どこか皆客観的で、自分のことになっていないのです。ファリサイ派の人々も出てきます。彼らは律法に熱心であるために、それを人々に押し付け、人々を苦しめる結果になってしまうこともありましたが、彼らは自分たちこそいつも正しいことを語り、行っているという自負がありました。皆渇いていないのです。

 これに似たことが私たちにもあります。よくわかっているということでは、信仰も、教会も、聖書も、分かっているとなると渇きようがありません。教会に身を置いて皆と一緒のことをしていればそれで安心ということがあります。私たちは一人ひとり従う者として集まっています。従うことを忘れて会衆の一人に紛れ込んでいたら渇きません。また自分はいつも正しいと思えば、これも渇きようがありません。

 だからこそイエスは大声にならざるを得ないのでしょう。そしてイエスのもとに行けば生きた水が川となって流れ出るのです。生きた水は私たちの内部にあるものを流してくれます。そこに新しい生きた水が流れてきます。それは聖霊だと言います。聖霊において今、まだ満たされないと思っていた自分の状況が別のように見えてくることがあります。だれにも理解されない渇きが神によって見られていることを知り満たされる。別のもので満たそうとしていたことががむなしくなってきて、私たちを造られた神のみが私たちの支えであり、喜びの源であることが分かると、むなしさから解放されていったりします。私たちイエスの招きの言葉に進み行く者でありたい。多くの人の流れからちがう方向に行くのには勇気がいるかもしれませんが、その声に応えていきたいものです。

    (10月8日)

inserted by FC2 system